To わたし

未来のわたしが読んでわらえる日記にしたい

混んだ電車に乗りたくない

 わたしです。この世の多くのひとがそうであるように、混んでいる電車が嫌いです。見知らぬひととべったりくっつかなくてはいけないし、そもそもつり革もあまり触りたくないし、楽しいことといえばだれも見ていない中で夫に変顔を見せて笑ってもらうくらいのものです。

 行きはともかくとして帰りの電車はすくまで待ってから乗るようにしています。かつては「待ったって混み具合は変わらないんじゃない?」と思っていた。しかし、いま信じている理論があるので待ちます。寺田寅彦の「電車の混雑について」という文章です。1922(大正11)年に発表されたものであり、青空文庫で読めます。

www.aozora.gr.jp

 たいへん有名なひとの有名な文章なので、いまさらという感もありますが、何年か前に読んで、納得したので信じることにしました。一読の価値ありです。

 この文章から読み解けることは、「電車がめちゃめちゃに混んでいても1本か2本待てばすく(その後また混んだ電車が来るにしても)」ということです。理論的な部分は本文に任せますが(Δってなんだ、△じゃないのか)、物理の知識ゼロでも納得感のあった文章を以下に引用しますので、ここだけでも読んでみてね。

 なんと言ってもあまり混雑のはげしい時刻には、来る電車も来る電車も、普通の意味の満員は通り越した特別の超越的満員であるが、それでも停留所に立って、ものの十分か十五分も観察していると、相次いで来る車の満員の程度におのずからな一定の律動のある事に気がつく。六七台も待つ間には、必ず満員の各種の変化の相の循環するのを認める事ができる。
 このような律動の最も鮮明に認められるのは、それほど極端には混雑しない、まず言わば中等程度の混雑を示す時刻においてである。
 そういう時刻に、試みにある一つの停留所に立って見ると、いつでもほとんどきまったように、次のような週期的の現象が認められる。
 まず停留所に来て見るとそこには十人ないし二十人の群れが集まっている。そうして大多数の人はいずれも熱心に電車の来る方向を気にして落ち着かない表情を露出している。その間に群れの人数はだんだんに増す一方である。五分か七分かするとようやく電車が来る。するとおおぜいの人々は、降りる人を待つだけの時間さえ惜しむように先を争って乗り込む。あたかも、もうそれかぎりで、あとから来る電車は永久にないかのように争って乗り込むのである。しかしこういう場合にはほとんどきまったように、第二第三の電車が、時間にしてわずかに数十秒長くて二分以内の間隔をおいて、すぐあとから続いて来る。第一のでは、入り口の踏み台までも人がぶら下がっているのに、それがまだ発車するかしないくらいの時同じ所に来る第二のものでは、もうつり皮にすがっている人はほんの一人か二人くらいであったり、どうかすると座席に空間ができたりする。第三のになると降りる人の降りたあとはまるでがら明きの空車になる事も決して珍しくない。
 こういうすいた車が数台つづくと、それからまた五分あるいは十分ぐらいの間はしばらく車がと絶える。その間に停留所に立つ人の数はほぼ一定の統計的増加率をもって増して行く。それが二十人三十人と集まったころにやって来る最初の車は、必ずすでに初めからある程度の満員である。それがそこで下車する数人を降ろして、しかして二十人三十人を新たに収容しなければならない事になる。どうしても乗れなくて乗りそこねた数人の不幸な人たちは、三十秒も待った後に、あとから来た車の座席にゆっくり腰をかけて、たとえば暑さの日ならば、明け放った窓から吹き入る涼風に目を細くしながら、遠慮なく足を延ばして乗って行くのである。そうして目的地に着いて見ると、すぐ前に止まっている第一電車は相変わらず満員で、その中から人と人とを押し分けて、泥田を泳ぐようにしてやっと下車する人たちとほとんど同時に街上の土を踏むような事も珍しくはない。 

寺田寅彦 電車の混雑について

  ひとのことを「群れ」と言ってしまう冷ややかな視点がクール(冷ややかな視点がクールという言い回し)。確かに、混雑しているときでも、ここに書いてある通りに山と谷があることを、わたしが使っている電車では認めることができました。それゆえに、わたしは寺田寅彦を信じ尊敬することにしています。わたしが今日遅刻したのはそんなわけです。