To わたし

未来のわたしが読んでわらえる日記にしたい

有島武郎の「小さき者へ」を読んで再起不能になった

 わたしです。昨日の夜は、夫の友だちといわゆるオン飲みをしました。ノーメイクだし、ゆるゆるの服だしで恥ずかしく、途中まではカメラに映らないようにしていたけれど、楽しくなってしまって、途中からはずっと映っていた。どちらかと言うと聞く側にまわっているのもあって、途中でお皿を洗ったり、眠くなってきたのでお風呂に入ったりと自由にやらせてもらい、楽しいだけでとてもよかった。

 終わったのが11時頃、そのまますぐ寝ようと思ってベッドにひっくり返る。LINEが来ていたのに気がついて、見ると友だちになりたい同期からだった*1。あちらからLINEをくれたのが初めてなような気がする。びっくりするが、うれしい。少なくとも嫌われてはいないらしいと思う。最近勧めた寅彦氏の話を読んでくれたのだと言う*2。薦めた話がおもしろかったとのこと、それは、そうでしょう。わたしも教えてもらったエッセイを読んだ感想を伝えた。彼が教えてくれたのは萩原朔太郎の「ラヂオ漫談」、ラジオならびに音楽に関する所感を述べた文章である*3

 

 彼が「これもよかった」と言って教えてくれたのが、有島武郎の「小さき者へ」という文章。すぐに読んだ。今日はこれの話をします。

www.aozora.gr.jp

 これは、パパ(有島武郎本人をモデルとしているよう)が、ママを亡くした自分の子どもが大きくなったときに読むようにとあてた手紙(の体をとった作品)で、初めて子が生まれたときのこと、その後結核になってママが死ぬまでのことを、簡潔に、でも感情を込めて綴られている。

 わたしは読みながらしくしく泣いてつかれはててそのまま眠り、翌日の今日になってもう一度読んで、また涙ぐんで、がまんしきれずにこんな記事を書いている。これを書き終えることで、もう少しこの文章と距離をとりたい、あまりにも力が強すぎる。

 本文を絶対に読んでほしいけれど、強く響いたのはこのあたり。

 愈々H海岸の病院に入院する日が来た。お前たちの母上は全快しない限りは死ぬともお前たちに逢わない覚悟の臍を堅めていた。二度とは着ないと思われる――そして実際着なかった――晴着を着て座を立った母上は内外の母親の眼の前でさめざめと泣き崩れた。女ながらに気性の勝れて強いお前たちの母上は、私と二人だけいる場合でも泣顔などは見せた事がないといってもいい位だったのに、その時の涙は拭くあとからあとから流れ落ちた。その熱い涙はお前たちだけの尊い所有物だ。それは今は乾いてしまった。大空をわたる雲の一片となっているか、谷河の水の一滴となっているか、太洋の泡の一つとなっているか、又は思いがけない人の涙堂に貯たくわえられているか、それは知らない。然しその熱い涙はともかくもお前たちだけの尊い所有物なのだ。
(中略)
 世の中の人は私の述懐を馬鹿々々しいと思うに違いない。何故なら妻の死とはそこにもここにも倦きはてる程夥しくある事柄の一つに過ぎないからだ。そんな事を重大視する程世の中の人は閑散でない。それは確かにそうだ。然しそれにもかかわらず、私といわず、お前たちも行く行くは母上の死を何物にも代えがたく悲しく口惜しいものに思う時が来るのだ。世の中の人が無頓着だといってそれを恥じてはならない。それは恥ずべきことじゃない。私たちはそのありがちの事柄の中からも人生の淋しさに深くぶつかってみることが出来る。小さなことが小さなことでない。大きなことが大きなことでない。それは心一つだ。
有島武郎 小さき者へ

 全快するまでは二度と子に会うまい(おそらく全快はしないので二度と会えない)と決意した母が流す涙を、父は子に「お前たちだけの尊い所有物」だと言う。少しも、自分のものではないと言う。この手紙を綴る父は、同時に、妻を亡くした夫で、彼もまた喪失の当事者なのに。妻/母を亡くすことは、ありふれた大したことのないことだと世間一般には思われるし言われる、きっとこれからそういう場面にいくらでも出会い子どもたちに、そして自分自身に、ありふれた妻/母の死を悲しむことを「恥じてはならない。それは恥ずべきことじゃない」と続ける。

 これが愛でなければ、なんなんだよ。書くことを諦めてしまうと、なぜこの記事を書き出したかわからなくなってしまうけれど、感情を涙に乗せて流す以外に、うろうろしながらこの文章を受け止める以外に、わたしにできることはない、そういう文章に久しぶりに出会ってしまって、わたしはもうだめです。

*1: watash1.hatenablog.jp 

*2:

寺田寅彦 電車の混雑についてを勧めた。自分でも記事を書いたことがある。 

watash1.hatenablog.jp

 

書いたのがもう1年も前だったのでちょっとびっくりした。遅刻する電車の中で書いていた覚えがある。

*3:

 さて実際にラヂオを聴いてから、僕は大に幻滅を感じてしまつた。「こはれた蓄音機!」これがラヂオの第一印象であつた。しかるにその後、親戚の義兄に当る人が来て、僕の家庭のために手製のラヂオを造つてくれた。これはラツパで聴くのでなく、受話機を耳に当てて聴くのである。見た所では、板べつこに木片をくつつけたやうなものであるがこれで聴くと実によくきこえる。不愉快な雑音も殆んどなく、まづ実の肉声に近い感じをあたへる。これならばラヂオも仲々善いものだ。前に悪い印象を受けたのは、拡声機のラツパで聴いた為であることが、ここに於て始めてわかつた。それ以来、往来に立つて聴いてゐる人を見ると、何だか憐れに思へてならない。ラヂオは受話機で聴くに限るやうだ。
萩原朔太郎 ラヂオ漫談

 わたしはこの部分が特に気に入って「板べつこに木片をくつつけたやうなもの」と表現されている手製ラジオについて調べるなどした(夫が仕組みを簡単に説明してくれたけれど、全然わからずおもしかった。ジャンプで連載している『Dr. STONE』が好きなのだけれど、同じ仕組みの通信機が出てきたような気がする。何巻だったかしら、ソユーズを探しに行くシーンでスパイ組がつけていたのがこれじゃなかったかな……)。